大連から北京に向かった。いつもの中国国際航空(CA)である。予定通りに北京首都空港着。とにかく大きな空港である。正確なことは知らないが、第三ターミナルだけでシンガポールのチャンギ空港全体より広いのではと感じる。
電車に乗る前に電話をする。初めて泊まるホテルなので、どこの駅で降りるかを聞く。携帯から懐かしい声が伝わってくる。もう3年か4年か会っていない。
最近は出張で大連に行く機会が増えていたようだ。しかし筆者とはスケジュールがいつも合わなかった。今年の春からは北京勤務になった。5月だったか、筆者は大連、上海に行く用事があった。その途中、北京で会いたかったのだが、ちょうど彼は日本に帰国中で会えなかった。久々に会うのだから、東京の居酒屋では面白くない。今回、やっと会える機会が来た。どうせ今回の大連行きフライトもマイレージである。少し足を伸ばして北京まで行ってきた。彼とは北京の場末のホテルで会った。
夜の8時、夕食はまだだ。もちろん、ご馳走になる。地元も地元、彼の故郷は北京だ。実は彼の国籍は中国である。ホテルの近くのありふれた料理屋へ行く。それでもさすがに地元である。彼が選んだ料理は美味しい。豆腐のあんかけ料理も良かったが、初めていただいたタケノコ料理が絶品である。
北京で食べたタケノコ料理
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9年前、彼はインドのチェンナイにいた。日本のバンキングシステムの開発で、顧客の立場に立ってインドでのソフトウェア開発の指揮をしていた。そんな中国人技術者は後にも先にも彼だけだろう。今は母国・中国で開発の先頭に立つ。
筆者の古巣、日本システムウエア(NSW)の中国法人:NSW CHINAの孫副総経理である。
NSW CHINA 孫副総経理
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彼と初めて会ったのは1996年の秋、福岡でだった。まだ九州大学の学生だった。当時のNSW社としては初めての中国人採用という事で、彼の面接のためだけに福岡まで出向いた。
ご両親は天安門事件で追われ、彼を留学を口実に日本に避難させた。日本に来る時、彼は「二度と中国には帰れない」と思ったそうだ。日本語学校で日本語を勉強し、九大に入学した。帰るべき国を失った気持ちの彼としては、必死になって勉強したことであろう。1997年にNSW入社。最初はソフトウェア開発の現場一筋である。米国ラスベガスで開催されたCOMDEXに若手社員も送る事になった。彼も送ろうとしたが、米国査証取得に時間がかかり、行けなかった。
ちょうどその時期、インドでオブジェクト指向技術研修を実施していた。こちらには別の若手社員T君を送るつもりだった。T君を説得するために、T君の職場まで行った。そうすると、孫君がこちらを睨んでいる。
「何? 孫君もインドに行きたいの?」
「はい、行きたいです」
その場で決めた。T君と2人でチェンナイに行かせた。
実はこの2人と一緒に、後日、インドに行くことになった。9年前である。インドではいつも一緒に動いていた。T君は別のソフト会社に出向いていたために昼間は会わなかったが、孫君とはいつも一緒である。チェンナイ南部郊外、今でこそ名実ともに「ITハイウェイ」となったが、当時はデコボコ道のハイウェイを車で1時間かけて通った。最近は20分で行ける距離である。
筆者は今でも英語はまったく駄目だが、相手の会社のマネージャさんの言う事などまったく理解できない。どうも英語で喋っているのではなく、火星語を話しているのではと真剣に思った。「トランザクションIDxxxxxxxのプログラム番号yyyyyyyは仕様書番号zzzzzzzのとおり作成したが、仕様変更通知番号aaaaaaaにより修正が必要となり、m日間の遅れとなった。しかし質問表に対する日本側の回答がn日間遅れたので、さらにn日間遅れる」、これを資料も見ずに機関銃のように喋る。やはり火星人だと思った。頭の良し悪しではない。火星人とはこんなに記憶力が良いものかと。こちらならもっと簡単に喋るのだが・・・
見ずに喋っているが、資料は資料としてある。しかし文字が小さ過ぎて読めない。宿舎に帰ってから測ったが、2.5cmのマスに文字が20字ある。それも虫眼鏡を使って調べた。火星人は目も良いのだ。
しかしそれは筆者の思いである。孫君はまったく苦にしていないようだ。火星語もすぐに理解できるようになったし、すぐに友達も作る。相手のマネージャさん達とも上手くやっている。やはりインド人と中国人というのは似ているようだ。夜は夜で楽しんでいる。孫君とT君の2人でいつも勝手に筆者の部屋に入ってきて、冷蔵庫のビールを飲んでいる。筆者は研修の時もそうだが、わざと部屋の鍵をかけない。勝手に入ってきて勝手に飲んでいて良いのだが、何故か請求書だけがこちらに来る。まぁ、その分、孫君の手料理をいつも食べさせてもらっていたから文句も言えない。T君曰く、「竹田さん、買う人。孫さん、作る人。僕、食べる人」らしい。
筆者は先に帰国したが、彼はチェンナイに全部で1年半滞在した。T君はチェンナイから帰国後にすぐに北京へ。やはりオフショア開発のマネージメント業務である。
孫君と会った翌日、彼の会社を訪問させていただいた。見知った連中がいる。それで少し調子に乗ってしまった。孫君の名刺を批判してしまった。裏が英文名刺になっている。「そんな英文の必要性はどこにも無いだろう。それよりも運転手に渡せば送ってくれるような地図にすべきだ」と、説教をたれる。余計なお世話と気がついた時には、すでに言葉が出た後だった。
当時の仲間は散り散りになってしまった。チェンナイ駐在員をしていたS君とは何故か何回か大連で出会った。カラオケで歌っている時に、いきなりすぐ近くのホテルから電話がかかってきたりする。T君はどうしているか。最近、彼とも会っていない。バンガロール駐在員のI君ともそうだ。やはりみんなでチェンナイで会いたいものだ。
孫君は今でも筆者の事を「大将」と呼ぶ。嬉しい限りである。。
いやいや、上司でも部下でも大将でもない。前回のコラムで書いた弊社の渡辺もそうだが、筆者にとっては孫君も戦友である。
日中印、3カ国を知り尽くした若きアジア人IT技術者の時代がやってきた。
いつかまた、孫君とはインドで一緒に仕事をしてみたい。
1年ぶりの北京市内
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